それから処方された7日分の抗生物質を服用し終えたが、一時期に比べずいぶんよくなったもののまだ症状があるので、再度医者に電話した。帰国の日が迫っていたので不安だった。
薬を処方してもらうだけのつもりだったが、医者が来るというので、別にきてもらわなくてもよかったが、来てもらった。
そし再度問診し、5日分の抗生物質を追加してもらった。カナダに帰る2日前のことだった。
今回3回目のインド長期滞在で、ハイデラバードには4週間近く滞在したが、そのうちの4分の3はホテルから一歩も出ずベッドで過ごしたことになる。
帰国の前日、このままホテルから空港へ直行するのはいやだったので、J次郎に付き添ってもらってホテルの近辺を散歩した。
↑ 街角の野菜売り。その他、バナナとかライムとかを自転車に積んで売りにくるひとたちもいた。
ホテルの裏手のあたりなのだが、別世界だった。のどかな世界が広がっていた。
昭和をおもいだした。
体力が落ちていたため、帰国は大変だった。
なんとかカナダの自宅までたどり着いてそれはそれはほっとした。
一時期に比べるとずいぶんよくなっていたとおもったが、帰国後熱をはかると、常に38度前後はあった。いったい一時期、一番辛かったときははどれくらい熱があったというのだろう。
次に長期で旅行するときは絶対体温計も持っていこうと心に決めた。
インドで尿路感染症と診断された私。
さっそくインターネットで調べると、どうやら私は高熱や寒気などの症状から、尿路感染症のなかでも、腎盂腎炎にかかってしまったのかもしれない。
抵抗力が弱っているときにかかりやすいよくある病気らしい。さては週末ハードロックカフェに行ったり、その次の日もパブに行ったりして調子にのって夜遊びしていたからか。そもそも水分補給していても、おもったより汗をかくので、あまりトイレに行っていなかったのかもしれない。
それでおもいだしたが、そういえばカナダにきてからも、たまに軽い膀胱炎の初期症状がでたことが何回かあった。具体的にいうと、排尿時にかすかな痛みを感じるのだ。
そういうときは、水をたっぷり飲んで努めて頻繁にトイレに行って治した。
今回は膀胱炎の症状などなかったので、膀胱炎などすっとばして腎臓まで菌がまわってしまったのか。
医者が処方してくれた薬はMONOCEFという抗生物質で、7日分の14錠で254ルピー(500円くらい)。
薬もホテルのひとが買ってきてくれる。ありがたい。
さっそくその夜から抗生物質を飲み始めた。
おもえばこの頃が一番辛い時期だった。
マラリアではないのにマラリアの治療などしていたのでその間菌が十分に蔓延してしまったのか。
食事は一日にコップ一杯のオレンジジュースとスイカを少し口するだけだった。
強烈な寒気の後に熱がでて、大量の汗とともに少し解熱。これを一日に3回は繰り返すのだが、発汗時に枕が濡れてしまうので、枕の上にタオルを敷いた。頭痛もひどく、J次郎が仕事に行った後には電気を全て消し、射光カーテンをひき、昼間から部屋は真っ暗の暗黒状態。
そして、菌を洗い流すべく、努めて水を飲みトイレに行くようこころがけた。
しかし、おもうように尿として水分を排泄できていないことに気がついた。
先ほど記したが、発熱のあとにくる発汗が、半端ではないのだ。汗で髪はぐっしょりと濡れ、枕も濡れてしまう。サウナでサウナスーツをきているくらい発汗する。加えて薬の副作用か、下痢もはじまった。
そういうわけで、さらにがんばって水を飲むことにした。
医者は、2日で熱が下がると言っていたのでかなり期待していたものの2日経っても一向によくならず、帰国の日が近づき焦っていたので医者に電話したりした。もう少し待て、と言われただけだった。
ところが、ちょうど薬を3日分飲み終えて数時間した午後、ふと体がずいぶん楽になっているのに気がついた。そして、締め切られたカーテンのむこうの外の世界が気になる。
ふらふらしながらもそっとカーテンをあけてみた。すると視界に広がる青い空が気持ちいい。そこでカーテンを全開にした。ベッドにもどり、いつまでも緑の木々と青い空を眺めていた。
それからはずいぶん楽になり、食事もスイカ以外のフルーツも食べられるようになり、ついに朝のブッフェにもなんとか自力で歩いていけるようになったのだった。
食事を運んできてくれるウエイターたちはいつもベッドに伏せている私を心配してくれていたが、医者にマラリアと言われたんだと告げると、oops!とか、おおーー、それは残念でしたなどと言って同情してくれた。
インドではマラリアはよくある病気らしく、たいてい誰でも、自分の祖父のときは、とか、ああーしたほうがいい、こうしたほうがいい、という話を持っていた。
それとは対照的に、イギリスから派遣されてきたJ次郎の同僚はその話を聞いて衝撃を受けていた。彼はヘビースモーカーで、外でタバコを吸うので蚊にもたくさんさされていたのだ。
私はといえば母から元気?などとメールがきていたが、あまりに衰弱しすぎていて返事できずに困った。
その昔勉強した国語の教科書に、あの坂をのぼれば海がみえる、という話が載っていたが、飲んだ直後にくる堪え難い強烈な吐き気を覚悟しながら一度に4錠という大量のマラリアの薬を飲むたびになぜだかその一文が頭に浮かんだ。この薬を飲めば、きっと明日にはよくなる、あの時は健気にそう願ったのだ。
さて、3日分の薬を飲み終え、一晩経ってもよくなる気配はなかったので、再度医者を朝呼んだ。
J次郎に電話してもらったが、医者はその日の午後4時過ぎにこれるという。J次郎が1時にはホテルをでるので、12時半までにはきてほしいというと、オーケー、オーケーなどといっていたが、電話をきる間際になって、じゃ、4時半までには行くからという返事。結局は11時から12時の間にきてもらえることになったのだが。
とはいえきっと4時過ぎにくるんだろうなあ、とおもっていると1時近くに医者登場。
診察してもらい、もうマラリアの治療は終わったから、何かの感染症だろうから抗生物質をだす、という医者。
この、とりあえず抗生物質反対派の私を憂い、J次郎が医者に検査を申し出てくれた。医者も承諾してくれ、検査後見合った抗生物質なり薬なりをだしてもらうことになった。
それでその結果と私の状況次第で何もなければそのままで、何かわかればその日の夜10時頃来てくれるという。J次郎に、9時半ころ医者に確認の電話をすれば、10時半に行くから、と言って帰っていった。ん?10時?10時半?もはやどちらでもいい。
同日午後、看護士だか医者だか、ラボのひとだかわからないが男性がきてくれて、採血。血を採り終えると部屋のごみ箱に使い捨ての注射針をろくに包みもせずに捨てていった。
尿検査もあるので採尿もし、彼は帰っていった。部屋のなかでは律儀に裸足だった。部屋の外で脱いだのか、脱がれた靴をみかけなかったので、最初から靴をはかないできたのかどうかはわからない。
夜10時。フロントから電話があり、医者がきているという。ずいぶん早いな、とおもったが、その理由は納得。
血液検査の結果から、マラリアではなかったことが判明。
尿検査の結果、尿路感染症ということだった。症状がよく似ているのだそう。
ああ、、、そうですか、、、。
マラリアの薬自体は飲んでも害はないし、飲んでいる期間はマラリアの予防にもなるしね、などとポジティブに考えてみるも、挫折。薬を飲んでいた3日間は夜遊びはおろか外出せずずっとベッドにいるのでマラリアにかかる心配はゼロなのだ。
まあくよくよ考えても仕方ない。
新しく処方された抗生物質に望みをかけたのだった。
私がブログを長らく更新しなかった場合、PCに問題が起きたか、私自身に問題が起きたかのどちらかであるが、今回は後者の場合。病気にかかってしまい高熱に苦しむ日々を過ごしていたのだ。
以下は、およそ2ヶ月にも及ぶ闘病記になる。
それは2月1日月曜日のこと。朝起きるとめまいがし、ふらつく。J次郎のシャツにアイロンをかけるのも辛かった。
それでも朝食はしっかりと食べられたし、軽い貧血だろうとおもいその日は普通に過ごした。
次の日の火曜は、寒気がして、昼食にこれといって食べたいものがなく、GVKモールのフードコートでジェラートを買って食べた。その夜頭痛がしたので頭痛薬を飲むと体もすっきりした。
水曜日。熱が出始めた。
夜には高熱になった。夜中に大量の汗とともに解熱し、その後寒気に襲われた。そして再び高熱がでる。
これを毎日繰り返した。
このころにはまだわずかに食欲もあってアイスクリームなどの口あたりの良いものは食べられていたため、風邪だろうとおもい、十分に熱をだしたら次の日には治るだろうとおもっていた。
しかし、日曜の午後になっても一向に治る気配がないので、J次郎がやっと仕事が休みになったこともあり医者を呼んだ。
ホテルのフロントに連絡すると、提携している医者が20分で来てくれた。
自分で車を手配して病院まで行かなくてもいいのはありがたい。
ちなみに一回の医者の往診費用は500ルピー。
症状を伝え、問診の結果、なんと、マラリアということだった。
J次郎も私も一瞬目が点。
蚊をみればやみくもにマラリアとみなし、昼間でもサンダルははかず靴を履き、ロングパンツに五部袖丈のシャツがインドでの定番のスタイルだった。それでも数回さされたのだが。
その数回のうちのどれかが憎きハマダラカだったというわけか。
こうして3日間のマラリア治療がスタートした。
日本だったら即入院だろうが、ここでそんなことはしたくない。
こんなときのためにと持参していたMALARONEという薬を1日1回4錠飲む。
実はこの薬、初めてインドに来たとき、マラリア予防薬としてJ次郎に処方されたもの。
薬の副作用に耐えかね、J次郎は数日飲んだだけで挫折してしまったが、処方してくれた医師よりマラリアの治療薬としても使えるので取っておくように指示があったため、インドへくるときはいつも持ってきていた。
それがまさか本当にこうして役に立つ日がやってくるとは。
往診に来てくれた先生は、参考にと薬の説明書を持って帰っていった。
副作用が強いということで相当怖気づいてしまっていたが、これを飲めば楽になれるんだ、そうおもって毎日がんばって飲んだ。
飲んだ後に強烈な吐き気が襲ってくるので、吐き気止めも追加で処方してもらった。
高熱、発汗、寒気の周期も初期は一日に1周期だったのが3周期になっていた。
髪がびっしょり濡れるとほどの大量の汗とともに熱が下がると、少しからだが楽になるものの、すぐさま強烈な寒気が襲ってきて、熱がぐんぐんあがっていくのだ。
このころには食事も一日にわずかな果物とジュースのみしか食べられなくなっていった。だんだん体が弱っていくのがわかった。
インドでのJ次郎の日課のひとつはトロントの気温をチェックし、メッセンジャーにてトロントの同僚に、こちらの気温と、水着で屋外のプールサイドにいることを伝えることだ。
マリオットから移った先は、去年一月以上滞在していたTaj Deccan。
マリオットのほうが内装は豪華だし宿泊費も高いのだが、よく知っているホテルだし、市内中心部だし、あえて移った。昔からあるホテルなので、広々しているので落ち着くのだ。
顔を覚えてくれていた従業員もいて、感激の再会。私たちもまさかまたインドに戻ってくるとはおもわず、不思議な気分だ。
さて、一年ぶりのハイデラバードは、変貌していた。
ハイテクシティーにも大きなモールができていたが、一年前は建設中だったTaj DeccanのすぐそばにあるGVKモールもオープンしていて、さっそく行ってみた。セントラルなどの他のモールより高めの店が入っている。
Hard Rock Cafeもできていた。毎週木曜日はイベントで、ライブミュージックが聴けるとのことだったので、せっかくだし行ってみることにした。ホテルからは歩いてすぐなのだ。
J次郎の仕事の都合で10時半に予約してみると、ウエイテリングリストの2番目だった。
夕方ごろ電話したのだが遅かったようだ。
ともあれ、着いてみると、イベントなので特別に入場料ひとり150ルピーを払わなければいけなかった。
食事がしたかったので、長く待つようだったら他のレストランに行きたかった。それで入場料を払う前に席にあきがあるかどうかまず聞いてみたところ、大丈夫だったので外で待っているJ次郎と入場料を払ってくると、やっぱり席に空きがないという。
もちろん文句を言ったら、席に通してくれた。中は広かったがひとでいっぱいだった。中国かコリアンかわからないがアジア人も多かった。
しかし、すごく寒い席だった。どこから冷房の風がくるのかわからないが、テーブルのセットされた紙ナプキンがひらひらと風になびいている。それで席を変えてもらったが、もしまたいくことがあったら、今度は暖かい格好をしていくべきだとおもった。
食事は、インドっぽいメニューもあったが、Jumbo Combo(490ルピー)という私の好きなオニオンリングやらJ次郎の好きなチキンウイングなどが盛り合わせなっているものを頼んだ。二人には多すぎる量だが、しっかり食べた。
食事をした後はステージのそばへ行き閉店の12時までバンドの演奏を聴いていた。
ロックな木曜の夜だった。
ハイデラバードでは、Marriottに泊まった。
ハイデラバードの空港に着き、預け入れ荷物がでてくるのを待つところで、マリオットホテルのひとが我々をみつけてくれて声をかけてくれ、そのまま彼が荷物を全て車まで運んでくれた。
部屋に着くとコーヒームースとチョコレートコーティングのコーヒービーンズがサービスされた。ふと気がつくとJ次郎がぼりぼりとコーヒービーンズを全て平らげてしまっていた。
アメニティーはシャンプーとボディークリームはあるのだけれど、ヘアコンディショナーと歯ブラシはなかった。歯ブラシは持ってきていたが、コンディショナーはなく、困った。バスタブは足を伸ばしてゆったりとくつろげるかたちになっていて、湯船のなかでリラックスできた。
ジムは広々としていてマシーンが豊富で本格的な設備ですごかった。欲を言えばジャグジーがないのが残念。
ホテルのまわりはめぼしいのものが何もない。
あるのは湖だけ。遊歩道が設けられ、のんびり散歩やジョギングができる。
また、無料のアクティビティーが用意されている。ヨガクラスと、ストレッチングのコースを受けてみた。平日の昼間なので、誰も他に予約するひともおらず、個人レッスンになった。他にも、参加できなかったがクッキングクラスなどもあった。
そして、近くにある、Birla Mandirという観光名所へのツアーもあった。これも無料。今回参加したのは私だけで、ツアーといってもホテルの車で行って帰ってくるだけ。
白亜の大理石がそれはそれは美しいお寺だった。階段をひたすら登るのだが、病み上がりの身にはきつかった。彫られている彫刻もすばらしいし、見晴らしもよかった。
入場料は無料だが、携帯とカメラは絶対に持ち込み禁止で、厳しいチェックが入った。よって写真は一枚もない。靴も脱がなければならない。私は待たせてある車にそれらを置いていった。
ハイデラバード滞在中はずっとここのホテルに泊まる予定だったが、J次郎の職場のあるハイテクシティーまでは遠すぎた。ホテルのひとは40分と言ったが、それはたとえば道路に他に車が一台も走っていない状態のときをさしていて、交通渋滞の激しいインドでは普通に昼間向かえば1時間半はかかってしまった。
部屋に蚊もいないし、建物は豪華なのだが、目の前を流れている川の臭いが気になる。
私もいくら無料アクティビティーがあるとはいえ長く滞在するのには退屈すぎるので、早々に切り上げ別のホテルへ移動することにした。
インドを出国することについては、特に問題がおきるとはおもっていなかった。
ところが、ハイデラバードの空港にて、KLMのカウンターでチェックインして搭乗券をもらうとき、職員にランディングするときの書類を持ってるか聞かれた。インドに持ってこなかったと伝えると、数分待たされ、最初に対応したときとは別の男性の職員があらわれ、カウンターから少し離れたところへ移動した。
ランディングしないことについて、一応インドに書類は持っていくかどうかは迷ったが、紛失することを恐れ、インドへは持ってこなかったのだ。
その男性は、ランディングするのに書類が必要です、という。私は、ランディングは記載してある期限内にすればいいことを告げたが、彼は、このビザを持ってる以上、カナダへ入国するのには移民申請しなければならないし、書類が必要だ、と譲らず私のいうことには耳を貸さない。そんなことはない、それは誰が言ったの?カナダ大使館に電話してみたら?というと、彼ははっとした表情で黙った。あ、でも今は夜中だから閉まってるわね、とさらに続けると、彼はカウンターへと一旦もどって行った。
最後の最後で非常にインドらしい展開だった。
気がつくと、そこらへんにいたKLMやら空港の職員やらが何事かと集まってきていた。
再び先ほどの男性が戻ってくると、今度は、カナダでのビザはどうなっているんだ、と聞く。私は、このビザは、移民申請にパスした証であり、入国するのは、問題ないんだ、と説明したが、でもこれは移民するときのビザで、ONCEと書いてあるから、一回入国したら移民申請しなければいけないんだ、という。
移民申請中は、観光ビザの延長申請をし、観光ビザでの滞在だったが、パスポートと一緒に送ったところ、その観光ビザの紙は回収されていた。
そこで、観光ビザは6ヶ月有効で、入国したときにもらえるものだから、カナダへ行ったら、その観光ビザが自動的にもらえるんだ、まったく問題はない、と強めに言ったところ、彼は、またカウンターへと向かい、再び戻ってくると、やっと納得した様子になり、失礼しました、マダム、よいご旅行を、などとすまなさそうに挨拶してくれた。
私も、めったにないことだから、しかたないよね、などと返し、ようやくゲートへ向かうことができた。
出国審査はまったく問題なかった。ただ、私は30分に渡る職員とのやりとりですっかり調子が狂い、オフィサーが、スタンプを押し終えてから、搭乗券は返してくれたのに、私のパスポートを返し忘れたのにその場で気づかなかった。カウンターを離れてバッグのなかに搭乗券をしまうときに気がついたからよかったものの、そうでなければ、どこで失くしたかもわからなかっただろう。危ないところだった。
トロントのインド領事館にてビザをとったときのこと。受付のインド人の男性に、出身地を聞かれたJ次郎は、生まれた土地を答えた。その男性は、「それはインドのどこの州なんだ?」
インドにて、オートリクシャの運転手との会話。
運転手「どこからきたの?」
J次郎「カナダ」
運転手「ケララ」(アーユルベーダで有名な州)
J次郎「カ、ナ、ダ」
運転手「ケララ!」
このようなやりとりがさらに繰り返され、結局彼はケララ出身だと納得して去っていった。
空港にて、J次郎の名前が書かれた紙を掲げて待っていたホテルのドライバーは、J次郎があらわれたとき、カナダからの男性を待っていたはずなのにインド人が現れたとおもいびっくりしたそうである。
チケットを手配してもらったトロントの旅行社のインド出身のひと達も、インド領事館でも、インドのホテルでも、とにかくインド人のだれもがJ次郎をインド人とおもい疑わなかった。
ちなみにJ次郎はインド人ではなく、もともとは中南米の生まれである。確かに肌の色は似ているけれど。
インドでの会社の同僚いわく、J次郎はNRIにみえるそう。NonResidentIndian、つまりインドに住んでないインド人というところか。
それから、今日もインド人と間違えられたというエピソードをきくたびに私は楽しく聞いて笑っていた。ショッピングモールで、それこそJ次郎そっくりなモデルの写っている広告をみつけ、写真を撮ったりもした。
日本人はまだ少なく、中国人も日本人も見分けがつかないだろうから、きっと私たちはさしずめ中国人とインド人のカップルにおもわれてるんだろうなあ、などとおもっていた。
ところがある日、私がひとりで道を歩いていると、交通整理をしていた役人に、ネパール?と聞かれた。日本人だ、と答えると、へええという顔をしていた。それから気になって、服を買ったとき接客してくれたお兄さんに、「交通整理のおじさんに、ネパールっていわれたんだけど、そう見える?」と聞いてみると、彼はにこにことうなずいた。
J次郎はこの話を喜んだ。
どうやら私たちは、おもっていた以上にインドの風景に溶け込んでいたようである。
そういうことなら、ふたりともインド服に身を包み、外国人値段のある観光名所にて、インド人の値段ですむかどうか試してみたかった。インド人同士でも英語を使うので、言葉ができないのはあまり関係ないのだから。
また、オートリクシャの料金で無駄な戦いをせずに済んだかもしれない。
最近、カナダで、スリランカ出身のJ次郎の友達が結婚することになり、婚約パーティーに招待してもらえるそう。インドの職場で、J次郎が餞別にともらった、おめでたい席に着るインド服が役に立つ最初で最後かもしれないときがきたようである。それとなく友達にインド服を着ることを打診した。彼は、「いいけど、親戚に(J次郎と)よく似たひとがいて、そういうの着るとその人と見分けつかなくなっちゃうかも」とのことだった。
インドでのオーダーメードジャケットの続きをアップしていなかったので書くことにする。
インドでのこともこれから少しづつアップしていこうとおもう。
仮縫いの段階での試着を済ませたのが火曜日、同じ週の金曜日に受け取りに行った。
ところが、ホテルに帰ってから、よくみると、ジャケットの背中側の裾の内側、裏地と表地が縫い合わせられていなかった。
電話すると、受け取りの日には問題ないと言っていたじゃないか、と言われたが、基本的な縫い忘れだ、と主張し、翌日の土曜日に担当していた若い男性にホテルまで引き取りに来てもらい、仕上げてもらったのをまた届けてもらった、ということがあった。
バンガロールでスーツを仕立ててもらったときの印象が良かったのでこの店を選んだのだが、なんだかハイデラバードでは頼りなく感じた。最初に聞いたときの出来上がりまでの日数も大幅にオーバーしていた。
とはいえ、オーダーメードのカシミアのジャケットを安く作れたことには満足している。
ちなみに値段は、税込みで9240ルピー(約18000円くらい)で、内2200ルピーは仕立て代となっている。
インドでは、人件費が安いのと税金の関係で、同じ質のものだと吊るしのほうが仕立てるより高くなるそう。
12月半ば、クリスマスを目前に控え、スキポール空港はクリスマスの飾りつけで華やかな雰囲気だった。
インドからの帰り、前回寄れなかった美術館へ行ってみた。入場料は無料である。
小さいながらも、落ち着いた照明に静かな雰囲気、そこは、空港にいるということを忘れさせてくれる空間が広がっていた。日本語の説明書も備え付けられていて、じっくりと絵に浸ることができた。
カジノを覗いた後、デリカテッセンにてゴーダチーズを買った。